平成27年2月

 ただ今、涅槃会の法要を執り行いました。涅槃会とは、古来2月15日とされているお釈迦様のご命日の法要です。

 お釈迦様は35歳のときに悟りを開かれましたが、それをご自分のものだけにとどめず、多くの人々の利益と幸福のために法を説く決意をされて、幾度となく伝道の旅をなさっています。
 最後の旅は、悟りを開かれてから45年、80歳のときでした。老齢のお釈迦様は、あるいはご自分の死期が近いことを感じておられたかもしれません。旅の途中、にわかに病を得たお釈迦様は、クシナガラ(拘那須竭)という村で、とうとう動けなくなってしまいます。そして、沙羅双樹の樹の下に横たわると、やがて見守るお弟子さんたちに「放逸なること(怠けること)なくして精進するがよい」という言葉を残して、永遠の静寂の中へ旅立たれたと伝えられています。

 これを「涅槃」と言いますが、その語源であるサンスクリッド語の“nirvana(ニルヴァーナ)”という言葉には、「火を吹き消す」という意味があります。
 お釈迦様は、人間の生活を「すべては燃えている」と表現されています。燃えさかる炎、それを「煩悩」と言います。
 お釈迦様は煩悩を「貪・瞋・癡」という三つの根本煩悩に整理なさっています。これを三毒と言います。貪はむさぼりの心、行きすぎた欲望のことです。瞋はいかりの心、癡はおろかさを意味します。人は兎角、あれがほしい、これがほしいとむさぼり、それが手に入らなければいかる。そのために道理にかなわないおろかなことをしてしまうこともある。そこに「苦しみ」が生じます。
 この苦しみの原因となっている煩悩の炎を消し去ってしまえば、心は平安を得られます。その状態が涅槃であり、すなわちこれは悟りの状態です。ではなぜ、お釈迦様はすでに悟りを開いていたのに、亡くなったときを改めて涅槃と言うのか。これをお釈迦様は「第一の矢」、「第二の矢」のたとえで教えてくださっています。

 お釈迦様も我々と同じく「人」であって、感覚、感情をもっています。暑い、寒い、あるいは痛いと感ずることもあるし、花を見れば「美しい」、赤ちゃんをみれば「かわいい」、誰かが亡くなれば「悲しい」と思うこともあります。これを「第一の矢」と言います。誰でも、この第一の矢は受けます。 しかし、悟りを開いた人は、そのあとの「第二の矢」を受けることがありません。
 では、第二の矢とは何か。それは、たとえば、美しいと思った花を独り占めしようとする、人とぶつかって痛いと相手に腹を立てる、そのように貪・瞋・癡の三毒に基づく感情が活発になってしまうことを言います。
 お釈迦様は35歳で悟りを開いて、この第二の矢を受けることがなくなり、80歳で亡くなって第一の矢を受けることもなくなりました。これを「完全な涅槃」、「大般涅槃(たいはつねはん)と言いますが、単に涅槃と言えば、この完全な涅槃を指すことが一般的になっています。

 ところで、以前、ダライ・ラマ法王が学園に来校されたときに、こういうことをおっしゃっていました。
「欲望には二つの種類がある。一つ目は、より執着の心と関連をもつ意味での欲望。これはたくさんの問題を引き起こすものなので、なくすべきだ。二つ目は、世界平和を望んだり悟りを得たいと思ったりする欲望。これは欲望を果たすということの正当性があるので、益々高めていく必要がある」
 法王のおっしゃる一つ目の欲望とは、我欲、自己中心的な欲望のことです。この欲望に支配されると、貪・瞋・癡に基づく自分の感情を満たすことばかりに執着します。気に入らないと思う人がいれば、その感情を満たすためにさらに相手の欠点を見つけ出し、その欠点にいかり、理不尽に相手を傷つけようとすることさえあります。争いだって起こります。これは、相手に矢を放っているつもりが、自分自身も「第二の矢」の連射を全身で受けるようなもので、相手も、自分も傷つくことになります。
 一方、法王のおっしゃる二つ目の欲望とは、たとえば「慈悲」であって、もはや欲望と訳すべきではないかもしれません。「慈悲」の「慈」とは人に喜びをもたらすこと、「悲」は人の苦しみを取り除くことを意味しています。
 生徒手帳の1ページ目に「諸(もろもろ)の悪(あしきこと)は作(な)すことな莫(な)く、衆(もろもろ)の善(よきこと)は奉行(ぶぎょう)し・・・」とありますが、「悪しきこと」とは「自分が苦しみ、人も苦しむ」こと、そして「後悔する」ことであり、「善きこと」とは「自分が喜び、人も喜ぶ」こと、そして「後悔しない」ことです。「慈悲」の心は、「善きこと」の実践においてはたらき、また、育ちます。

 ひとたび貪・瞋・癡の連鎖が始まると、その炎は無意識のうちに2倍3倍となって燃えさかります。だから、意識してその炎を鎮め、慈悲の心を育てる努力をする。意識して「悪しきこと」をせず、「善きこと」をすすんで行う努力を重ねる。間違っても、人の命や心を傷つけるようなことをしてはいけない。誰でも自分を愛しく思っています。だから、自分を大切にするのと同じように、人の命や心を大切にする。毎日の生活の中で、それを当たり前にする。
 それが、「違いを認め合って、思いやりの心を」もった「明日」への種となるのだということを、一人ひとりが深く自覚してください。(涅槃会のお話から)