平成27年1月

 2015年が始まりました。
 新しい年を迎え、この一年がよい年となりますようにと初詣で祈願してきた人も多いのではないかと思います。

 「日々是好日(にちにちこれこうにち)」という言葉があります。中国唐の時代末期の雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師という方の言葉です。「好日」とは、「好ましい日」と書きます。したがって、「日々是好日」とは、文字の上では、毎日毎日が好ましいよい日であるという意味になります。一年は一日一日の積み重ねですから、それがよい日ならば一年もよい一年となり、ひいては「年々是好年」ということにもなります。
 確かに、やることなすことが自分に都合よく運んで、小躍りしたくなるような日というのはあります。しかし、そんな日ばかりが続くわけはなく、不運な出来事に哀しみに暮れたり怒りに震えたりする日もあります。しかし、そんな日ばかりが続くわけでもありません。どんな人にも、よい日もあれば悪い日もあります。では、どうしたら「日々是好日」となるのでしょうか。

 私たちには喜怒哀楽の感情があります。喜ぶときには喜び、怒るときには怒り、哀しむときには哀しみ、楽しむときには楽しむ、ただし、感情に支配されてとらわれたり煩わされたりしない、それが「日々是好日」への第一歩となります。そのためには、自分を客観視して、「今はこういう感情に支配されている」と自分の感情に気づく習慣をつけることが大切になります。

 哀しみや怒りは、とらわれれば自己増殖します。そのために、人に当たってしまうこともあります。しかし、自分を客観視すれば自身の改善点に気づいたり、人間として成長するチャンスをつかんだりすることができます。自分のあり方は自分次第であって、たとえば、病気になったときであっても、何気ない日常やあたり前にいてくれる周囲の人々への感謝が生まれたり、病気で苦しんでいる人の気持ちがわかったりすることがあります。それも成長するためのチャンスです。
 喜びや楽しみも、とらわれればもっともっとという果てしのない欲につながります。たとえば、ゲームにのめり込むのもその一つで、欲にはまれば自分を見失います。努力が結果に表れたときの喜びも、とらわれれば慢心や油断につながります。しかし、自分を客観視すれば、欲を手放すことも、兜の緒を締め直すこともできるようになります。

 日々が「好日」かどうかは、出来事の良し悪しの問題ではなく、それを自分が「どう受け止めるか」という心の問題です。その如何によって、目の前の「今、ここ」に肯定的な意味を見いだすことができ、日々が「好日」となっていくのだろうと思います。
 そのとき、その場に対応しながら、感情にとらわれたり煩わされたりすることなく、あるがままに受け止めて、では目の前の「今、ここ」を自分はどう生きるのか。「日々是好日」という言葉は、そのことを私たちに問いかけています。

 6年生の諸君は、いよいよ大学入試本番が始まります。この大きな試練に挑む一日一日を、君たち自身が「日々是好日」とすることを、心から願っています。(朝礼でのお話から)