平成27年5月

 以前、世田谷学園で教頭を務められた本巣先生という方がいらっしゃいます。先生は中学1年生だった私たちのクラスで、「道徳」の授業を担当してくださいました。「道徳」は、今の学園で言う「生き方」に当たる授業です。最初の授業は、生徒手帳の1ページ目にある

諸(もろもろ)の悪(あしきこと)は作(な)すこと莫(な)く

衆(もろもろ)の善(よ)きことは奉行(ぶぎょう)し

自(みずか)ら其(そ)の意(こころ)を浄(きよ)くする

是(こ)れ諸仏(しょぶつ)の教(おし)えなり

 すなわち、「七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)」のことでした。「大切なことだから、生徒手帳の1ページ目に書いてあるんだ」という先生の言葉を、今でもよく憶えています。だから私も、1年生の御殿場オリエンテーションでは必ず、「七仏通誡の偈」の話をすることにしています。

 諸の悪は作すこと莫く、衆の善は奉行し──悪い行いはせず、善い行いはすすんでする、当たり前のことです。ところが、その当たり前のことを当たり前に行えているかというと、必ずしもそうではありません。

 人は自己中心の私利私欲に走って、行動の価値基準を、善いか悪いかではなく、自分にとっての損か得かということに置いてしまうことがあります。そうなると、自分の得になることは悪いことでもしてしまう、得にならないことは善いことでもしないということにもなりかねません。だから、「自ら其の意を浄くする」ということが大切になります。意識して、悪い行いはせず、善い行いはすすんでする。そう努めていると、次第に、人が見ていようが見ていまいが、悪い行いはできず、善い行いはすすんでする、そういう心ができていきます。

 以前、御殿場オリエンテーションの宿舎のトイレで、後から使う人のため、自分が使ったスリッパだけでなく、他のスリッパも一人で揃えてくれていた生徒がいました。私がそのトイレに行ったのはたまたまです。後からトイレに入った人が、彼がスリッパを揃えてくれていたとわかるわけでもありません。褒められることを期待せず、見返りを求めるわけでもない、自分の利、自利を離れた行い、その姿に、心が洗われる思いがしました。

 道元禅師は「人は必ず陰徳を修すべし」と言われています。陰徳は、その人の品性、品格となって外に顕れてきます。その人全体から醸し出される空気が違ってきます。すると、その人にあこがれ、ついてくる人、同じように歩もうとする人が出てきます。

 「自らその意を浄くする」、そのことを、私たちはいつも忘れずにいたいと思います。(朝礼でのお話から)