精霊祭を迎えて

 はじめに、本日ご供養をさせていただいた方々のご家族の皆様、同窓会、三心会の皆様、ご来賓の皆様にご挨拶申し上げます。本日はご多端の中をご参列賜り、まことにありがとうございます。お陰様をもちまして、理事長先生ご導師のもと、全校の生徒諸君とともにいとなみました精霊祭の法要を、一層心のこもったものにすることができました。どうぞ今しばらく、お時間をともにお過ごしくださいますよう、お願い申し上げます。
 そして、生徒諸君、先ほど理事長先生からもお話があったように、本日お迎えさせていただいているみ魂は、君たちにとっても学園を通じてご縁のある方々のみ魂です。最後の「み魂まつりの歌」、そして拝礼まで、真っ直ぐな姿勢を保って、心正しく、清らかに、式に臨んでください。
 さて、世田谷学園には「明日をみつめて、今をひたすらに」、「違いを認め合って、思いやりの心を」という2つのモットーがあります。形の上で分けて表現してはいますが、この2つのモットーは決して別々のものではありません。君たちの「明日」は、君たちの成長ととともに進化していきます。そして、その進化は、我欲に満ちた自己中心的な「明日」ではなく、「違いを認め合って、思いやりの心を」もった「明日」への進化でなくてはなりません。
 先月、やはり僧侶だった私の伯父の二十七回忌の法要がありました。私が幼かった頃には、父親だと勘違いするほど私のことをかわいがってくれた伯父でした。その伯父が亡くなる直前、病院にお見舞いに行ったときのことです。すでに起き上がることはできず、言葉を発することもままならない状態でした。しかし、私たちのために何かを言おうとしている様子がわかりました。すると、当時高校生だった伯父の娘が、伯父の口元に耳を近づけて、何とかその言葉を聞き取り、復唱してくれました。それは、「お金はたまるけど、心はたまらない」という言葉でした。
 我欲に満ちた自己中心的な「明日」を追い求めれば、お金はたまるかもしれません。しかし、人のことを考えるよりも、自分にとっての損得ばかりを勘定するようになります。それでは心はたまらない、豊かにならないのだと、伯父は言いたかったのだと思います。
 あの日のお見舞いは、伯父との最後の出会いとなりましたが、私たちのために伯父が振り絞ってくれた言葉は、今でも私の中に生きています。
 はじめての人と会うのも、同じ人と幾たび会うのも、その一つひとつが一期一会の出会いです。それがよき出会いであればあるほど、人の心はたまります。よき出会いには、思いやりと感謝があります。それがお互いの心を豊かにします。
 ただし、よき出会いが与えられることを待っているだけでは、心はなかなかたまりません。与えられなければ、たまるのは不平や不満です。だから、自らよき出会いを差し上げようと生きることです。

 先日、通学時間帯に電車のダイヤが大幅に乱れて、学園でも授業の開始を遅らせたことがありました。電車の中は大変な混雑であったということですが、数日後、そのときの世田谷学園の生徒の振る舞いが立派で感銘を受けたと、居合わせた方からご連絡をいただきました。途中からにはなりますが、いただいた文章を、そのまま読ませていただきます。

 その中で一人の小学校低学年の男子生徒が押し潰されそうになり、外国のご婦人が保護しようとされていましたが、どうにもなりません。
 そこで貴校の3名の生徒さんが、自身の体勢を保つのも大変な状況にも関わらず、自身が壁になって必死に男の子を守り、「大丈夫?」と何度も声掛けをしたり、手荷物を持ってあげたりしていました。
 殺伐となりかねない状況に、本当に微笑ましく、勇気ある行動にほかの会社員もにこやかにされていました。
 小学生の男の子もやさしいお兄さん達に守ってもらい、安心して登校できたのではないかと思います。
 私自身も本来ならぐったりして出社していたところを、その日はとても晴れやかな気持ちでした。
 本当にありがとうございました。

 大変な状況の中で、自分たちのことばかりを考えるのではなく、思いやりの心を忘れなかった3人の生徒諸君は、彼らも気づかないうちに、男の子はもちろん、周囲の方々にも、よき出会いを差し上げていたのだと思います。その場にいなかった私も、ご連絡をくださった方のお心との出会いによって、心をためさせていただくことができました。

 よき出会いが与えられることを待つばかりではなく、自ら差し上げる生き方をする、それは人の心も自分の心も豊かにします。私たちの命は、先祖代々の数え切れないご縁によって受け継いだ奇跡の命です。自分のためだけの「明日」ではなく、「違いを認め合って、思いやりの心を」もった「明日」へとつながる、心豊かな生き方をしたいと思います。(精霊祭のお話から)