平成26年12月

ただ今、お釈迦様のお悟りを記念する成道会の法要を営みました。また先ほど、この修道館を道場とした臘八摂心も無事円成しました。大衆(だいしゅう)の威神力(いじんりき)という言葉がありますが、生徒諸君が参加してくれるから、私も他の先生方も坐ることができます。そのことに感謝をしています。

さて、お釈迦様は、今から約2500年前、ヒマラヤ山脈の南、現在のネパールとインドとの国境付近に、カピラ国という小さな国を建てていた、釈迦族の王子としてお生まれになりました。姓はゴータマ、名はシッダルタといい、物質的、経済的に恵まれた環境の中で、大切に育てられます。しかし、お釈迦様は大変に感受性が強く、成長するにつれて、生老病死に対する不安やおそれを抱くようになります。たとえば経典はこう伝えています。
「私は、そのような生活の中にあって、ふと思った。愚かな者は、自分も老いる身であり、老いることを免れ得ないのに、他の人の老いたるを見ては、おのれを忘れて厭いきらう。考えてみると、私も老いる身である。老いを免れる術はない。それなのに、他の人の老い衰えたるを見て厭いきらうというのは、相応しいことではないはずである。そのようにおもったとき、私の青春の驕りはことごとく断たれてしまった。」
これは若き日のお釈迦様にとって大きな問題でした。この苦悩を抱えたまま、今の生活を続けることはできない、そう考えたお釈迦様は。29歳のある日、物質的に恵まれた生活の一切を捨てて、髪を剃り落とし、ついに出家をします。

当時のインドにおける出家者の修行法には、坐禅瞑想により精神を統一する禅定と肉体を苦しめる苦行とがありました。
お釈迦様はまず、当時有名だった2人の仙人を相次いで訪ね、禅定を学びます。どちらもほどなくして仙人と同じレベルに達しますが、禅定中は安らかな境地になることができても、禅定を離れるともとに戻ってしまって、苦悩の解決には至りません。
そこで、次に苦行に身を投じます。苦行とは、肉体は悪しきものの宿るところであって、その肉体の力を弱めることで精神によりよき活動力が与えられる、というものです。お釈迦様の苦行は、誰も経験したことのないほど徹底したもので、5年あるいは6年にも及んだといいます。最後は、死に至るほどの断食まで試みますが、肉体の力が弱まっても、頭は朦朧とするだけで、心の安定は得られません。
苦行をやめる決意をしたお釈迦様は、河の流れに身を清め、村の娘スジャータからにゆう乳び糜(乳粥)の供養を受けて体力を回復すると、一本の菩提樹の下でけっかふざ結跏趺坐の坐禅に入ります。そして8日目、明けの明星が輝くのを見て、ついに成道、悟りを開かれました。それが臘月、すなわち12月の8日とされています。このとき、お釈迦様は35歳となっていました。

お釈迦様が悟られた内容、それは「縁起の理法」です。「縁」とは、種々の条件を言います。したがって、「縁起の理法」とは種々の条件によって現象が生起する原理ということです。縁起の理法は、しばしば次の公式で示されます。
「これあれば、かれあり。これ生ずれば、かれ生ず。これなければ、かれなし。これ滅すれば、かれ滅す」
お釈迦様は、避けることのできない生老病死に対する不安やおそれに苦しんでいました。しかし、すべてのものが条件によって起こるなら、これ滅すれば、かれ滅す、その条件を取り去れば、苦も消滅するはずです。では、何を滅すれば、苦が滅するのか。その答は「欲望」でした。のどが渇いたものが水を求めてやまないような激しい欲望です。お釈迦様は、その欲望を滅するための方法として、八正道、すなわち、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定(正しい見解、正しい考え方、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい注意、正しい精神統一)を示されています。その一々を解説はしませんが、ここで知っておいてほしいのは、これは実に積極的な考え方ではないかということ、人間が、自己の運命、将来に対して、敢然と挑戦することを肯定するのが仏教だということです。
縁起の公式の中にある「これ生ずれば、かれ生ず」、あるいは「これ滅すれば、かれ滅す」に注目すると、これは時間的な因果関係を表していると言えます。自分の成長や人の幸せにとって好ましくない行いをなせば、それに応じた好ましくない結果を受けます。それは否定できない因果です。しかし、その好ましくない行いをやめて好ましい行いをなせば、好ましい結果を受け、「明日をみつめて、今をひたすらに」生きる人、「違いを認め合って、思いやりの心を」もって生きる人へと変貌することができます。そして、好ましくない行いをなすか、好ましくない行いをやめて好ましい行いをなすか、その自由は私たち一人ひとりに任されています。私たちは、私たちの意思によって、精進努力によって、因果の流れを変えることができるということです。

明日をつくる決然たる意思を持つ。これを勇猛心と言います。そして勇猛心をふるって今をひたすらに生きる。成道会に因んで、自らの可能性へと挑戦する気概をあらたにしてほしいと思います。(成道会のお話から)